”彭”と楚文化關係について——馬王堆帛書《周易》を中心にとして(1)
發表於 : 週一 10月 17, 2016 3:41 am
”彭”と楚文化關係について
——馬王堆帛書《周易》を中心にとして
一、はじめに
《周易·大有卦·九四》爻の爻辭について、古今易学史上では、定論がない問題である。しかも、版本学の角度から言えば、漢代から、この爻の爻辭用字については、三つの版本があって、當時、伝わっていた。どの版本の用字が、《周易》作者の本來の意味を表す原始的な版本かということは、本當に難しくて確認できない。この三の版本は、次の樣うな用字がある、1、漢代の虞翻を代表とする虞氏易学の版本、“その尪にあらず、咎なし”に作っている。2、魏晉時代の王弼を代表とする王氏易学の版本、“その旁にあらず、咎なし”に作っている。3、漢代の熹平石經を代表とする正統的な易学の版本、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。
二十世紀の七十年代初期になって、漢代の馬王堆帛書《周易》の出土に本なって、この爻の爻辭原始的な用字の判定と理解にとって、一つの參考すべき機會が與えられた、しかし、殘念なことに、漢代の馬王堆帛書《周易》は、一つの完全な版本ではなかった。通行本に比べて、間違った用字も至る所にある。たとえば、《師卦·上六》は、馬王堆帛書《周易》は、“大人君、命あり:國を啟き、家を承く、小人は、勿かれ”に作っている。ここの“勿”字の下、文字がはっきりしていない。しかし、ここの“大人君、命あり”というのは、通行本は、“大君、命あり”に作っている。しかも、“大君”という言葉は、《周易》と《尚書》など先秦時代の古籍において、常に使われたものである。ぃわゆる“大人君”というのは、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》のみに使われている、從って、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》においては、“人”字が誤って加えれたものであると分かる。“國を啟き、家を承く”というのは、通行本との“國を開き、家を承く”より、韻律と文勢が、はるかに劣っている。また、《漸卦·六四》の馬王堆帛書《周易》は、“鴻木に漸む、或いはその冠を直す。。咎なし”に作っている。通行本、“鴻木に漸む、或いはその桷を得す。咎”に作っている。二者を比較すれば、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》、“”字の一字が多い。その文字の意味は、今まで誰にも分からない。しかも、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》の“鴻木に漸む”の“木”の象は、後面の“或いはその冠を得す”の象とは、爻辭の象を取る方法は、一致しない、後面の“或いはその冠を得す”のなかには、“木”の象がない。しかし、通行本の“鴻木に漸む”の後面にある象は、“或いはその桷を得す”であり、“桷”のなかには、“木”の象があって、意味も明確になる。以上から、馬王堆帛書《周易》の版本は、一つの完全な版本ではない。
漢代馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》爻の爻辭は、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。これは以下のことを意味する、
1、“その尪にあらず、咎なし”と“その旁にあらず、咎なし”との兩種類の版本は、當時、すでに存在しなかったということである。この爻に対する歷代の論爭は、これによって解決されるはずである。なぜなら、現存する最も初期の出土史料が、秦·漢の易学の版本では、この字の用字は、“その彭にあらず”に作っているからである。“尪”と“旁” とは、“彭”の俗字として使われているはずである。
2、“その彭にあらず”と“その尪にあらず”と“その旁にあらず”との三種類の版本が、當時、存在した。ここの馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》における“その彭にあらず”というのは、ただ當時三つの版本が並存していたことを証明するのである。すなわち、馬王堆帛書《周易》を孤立的な根拠として、馬王堆帛書《周易·大有卦》の用字は、“その彭にあらず”の版本が、當時、実際に存在していたことを証明するのである。その意味は、この爻の由來の論爭は、すでに形成されていたことを意味する。それで、この爻の形成およぴ原始的な內容を研究することは、原始《周易》經典の成立史にとって、特に、《大有卦》原始卦義の解釈に対して、極めて重大な意義がある。
本論文は、以下の構成で研究を進されることにする、一、はじめに。二、《大有卦·九四》爻の諸說についての考察。三、《大有卦·九四》爻についての諸版本の考察。四、虞氏易学の“尪”字說についての考察。五、“尪”字の成立史研究。六、“尪”と“彭”の関係の考察。七、結び。
二、《大有卦·九四》爻の諸說についての考察
本節では、《大有卦·九四》爻にある多くの解釈を考察し、以後の考察のため、基礎的な見解を述べる。私の考察によると、古今の易学史のなかに、この問題に対する解釈には、以下の十種類がある。
1、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說。
それは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味をもって“その彭にあらず”に対する版本用字を解說するのである。たとえば、宋代の朱震《漢上易伝》は、
彭は、《子夏伝》は、“旁”に読作す。旁は、盛滿の貌なり。
とある。また、宋代の程頤《易伝》は、
彭は、盛多の貌なり。
とある。今人鄧球柏《帛書周易校釈》は、
彭は、盛大の貌なり。
とある。これらと同じものに、たとえば、宋代の楊萬里《誠齋易伝》は、“盛になるの至るなり”とある、元代の吳澄《易篡言》は、“声樂を作す盛のになるなり”とある。明代の來知德《周易集注》は、“言うこころは、声勢の盛になるなり”とあるなど、宋代より、“彭”字を“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味に解釈するのは、一つの主流であっり、その說の由來については、すなわち、程頤《易伝》が考証している。それは《詩經》における“彭彭”一詞の意味をもって《周易》における“彭”字の意味に解釈するのであった。その論証過程は、次の通りである。
彭は、盛多の貌なり。《詩·載驅》に云く:“汶水湯湯、行人彭彭”と、行人盛多の狀なり。《雅·大明》に云く:“駟騵彭彭”と、言うこころは、武王は、戎馬の盛になるなり。
とある。しかし、“彭彭”という言葉は、“彭”の意味ではない。たとえば、《詩經》においては、“桃の夭夭”の“夭夭”という言葉の意味が、“夭”字とは、意味がまったく違っているである。すなわち、古代漢語における重疊詞の意味というのは、單漢字の意味の單純な重複ではない。このことから、程頤《易伝》におけるこの字に対する解釈は、明らかに不十分である。以上の事が正しければ、この說の成立根拠は、すでになくなってしまったことになる。
2、“驕滿”說
この說の起源は、“その彭にあらず”の“彭”字を“亨”字に解読するのである。この說は、晉代の干寶が始めて作った。唐代の陸德明《經典釈文》は、
干は、“彭は、亨なり。驕滿の貌なり”と云う。
とある。この說の由來については、これまてのところに明らかでない。歷代、この說に贊成した者は、すくない。よって、“彭”字を“亨”字に解釈したうえで、さらに“驕滿の貌”に解釈したのは、根拠が不十分である。
3、“壯”字說
この說の起源は、魏晉時代の王肅が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
王肅は、“壯なり”と云う。
この說の由來については、これまてのところに不明である。歷代、この說に贊成した者は、すくない。この說については、成立した根拠が、不十分である。
4、“旁”字說
この說の起源は、孔子の学生として易学家卜子夏により、始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
《子夏》は、“旁”に作っている。
とある。唐代の史徵《周易口訣義》は、
彭は、旁なり。
とある。しかし、《周易卜子夏伝》は、中國古代社會のなかで、すでに失伝したが、この說を引用した者もすくないである。いまは、日本で出版されて、小林珠淵が校正された《周易卜子夏易伝》によって言えば、卜子夏は、“彭”字に基づいて言うと“旁”に解読したのである。《周易卜子夏伝》の時代と馬王堆帛書本《周易》の時代との時間距離は、わりと近寄っている。いま見ると、當時、伝えられた《周易》版本は、“匪其彭”版本を主としたため、“彭”字を解釈する時に、重大な間違いを犯したのである。
5、“三”字說
この說の起源は、魏晉時代の王弼が始めてとなえた。王弼《周易注》は、
旁は、三と謂うなり。
とある。王弼は、九四爻位の“その旁にあらず”を九四爻位のとなり(旁)の第三爻に理解した。唐代の孔穎達《周易正義》も九三は九四の旁にあると謂うとある。王弼は、字義の解釈を彼に棄てられた伝統的な象數学に遡った。ここには、彼のこの說と彼の“意を得、象を忘れる”の易学理論とは、明らかに矛盾している。しかも、この說の由來については、彼は、根拠をあげなかったから、この說を成立する基礎も無くなった。
6、“大”字說
この說の起源は、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。始めてとなえた者は、明代の陳士元であった。陳士元《易象鉤解》は、
彭は、大なり。大は、六五のある所があるなり。
とある。この說は、実は、取るに足らぬのである。“彭”を“大”に解釈するのは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。しかも、ぃわゆる“大は、六五のある所があるなり”というのは、すなわち、王弼の“旁は、三と謂うなり”を“旁は、五と謂うなり”に直した。四爻の下爻としての第三爻を四爻の上爻としての第五爻に直したものである。この說は、実に程頤說と王弼說を混同したものである。この說は、原始用字本義に対する研究の作用を無くすことなった。
7、“朋”字說
この說の起源は、日本の真勢中洲が始めてとなえた。森肋皓州《周易解詁》は、
真洲氏は、《周易釈故》の中で“彭”字を排し、“朋”字說を主張している。ここでは真勢氏の主張に從った。
とある。しかし、《周易坤卦》の中には、“朋”がある。それで、“彭”字を“朋”に釈するのは、古籍の根拠が足りたいのであるから、この說を成立させる時代的根拠も無くなった。
8、“尪”字說
この說の起源は、漢代の虞翻が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
虞は、“尪”に作っている。
とある。また、唐代李鼎祚《周易集解》は、
虞翻曰く:匪は、非なり。その位は、尪なり。足は、尪す。体行、正しからざるなり。四は、位を失う。震は、足を折り、故に変して正を得、故に咎なし。
この說は、極めて特別な說である。“その尪にあらず”の版本が、ここから始まったのである。漢代の易学史上では、獨立獨步である。この說の由來については、私は、後文のなかで、詳細に考証を進める。
9、“音、義未詳”說
この說の起源は、極めて学術態度によって為された。宋代の朱熹が主張したのである。朱熹《周易本意》は、
“彭”字は、音、義、未詳なり。
とある。
10、“筐”字說
この說の起源は、日本の渉江羽化が考えたものである。渉江羽化《周易象義》は、
“匪”は、“筐”と同じ。離中虛、筐の象あり。
とある。しかし、この說の根拠が足りない。すなわち、“匪”字を“筐”字に解釈した古籍における証明が無い。
以上は、《大有卦·九四》爻に対する多くの解釈である。これは、以下の結論を証明することになった。つまり、この爻の論爭は、卜子夏の時代から、すでに形成されていたということが分かる。
三、《大有卦·九四》爻についての諸版本の考察
《大有卦·九四》爻にある多くの版本を考察するのは、十分に必要である。この研究は、この爻に対する版本用字の歴史を探求するためである。
1、帛書本
いま、保存されていて、最初の《周易》版本は、20世紀70年代の初期に出土した漢代の馬王堆帛書本《周易》である。この版本のに存在については、中國古代史料のなかに、まだ、記錄を見ない。この發見は、この版本が、漢代の初期以降、すでに失伝したということを物語っている。この版本の出現は、以下のことを意味する持つ。すなわち、中國古代の易学者達は、秦·漢易学の發展史に関する一連の重大な結論を書き直さなければならない。
私は、この論文の引論において言ったように、通行本に比べて、この版本の方が、間違った處もある。馬王堆帛書本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字ついては、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。このような版本の用字は、本論文の研究に、難しさを加えている。ここからいえば、この爻の用字およば本義の論爭が、漢代の初期以降、すてに形成されていたことが分かる。
2、石經本
いま、保存されている最も早い石經本《周易》は、漢代の熹平石經本《周易》である。漢代から、“儒術を獨り尊ぶ”という政策が行われたので、兩漢時代に、政府が主持された《周易》の用字をする校正ことが多い。たとえば、《漢書·宣帝紀錄第八》は、
三年春……諸儒に詔し、五經の異同を講ず。
とある。また、《後漢書·孝靈帝紀第八》は、
四年春……諸儒に詔し、五經文字を正す、石に刻し、太学の門の外に立つ。
とある。また、《後漢書·孝安帝紀第五》は、
四年……東觀に五經を校正す……脫誤を整齊す、これを正文字謂とう。
など。漢代の熹平石經本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。ここからいえば、この爻の爻辭用字については、漢代から、“その彭にあらず。咎なし”をもって、正式な版本としていたことが分かる。漢代の他の版本の用字について、當時、ぃわゆる印刷術というのは、尚だ、誕生していなかったので、後代の文獻記錄のなかに、まだ、漢代の易学者虞翻の“その尪にあらず。咎なし”という版本·漢代以前の易学者卜子夏の“その旁にあらず。咎なし”という版本が、存在しているはずである。或いは、將來、出土する史料が、これら兩種類の版本を提供するはずであると考えられる。
3、宋代版本
いま、見える最も早い、書として印刷された《周易》版本は、宋代の活字排印の方法印刷したものである。唐代の印刷物は、雕版の方法で橫長くのもののなかに、印刷したものである。ぃわゆる卷子本である。こんな印刷形式の《周易》版本は、いままで、まだ、見られない。
宋代に印刷された宋代以前の易学著作については、たとえば、北宋時代に印刷した魏晉時代の王弼の《周易注·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その旁にあらず。咎なし”に作っている。また、同時代に印刷された唐代の孔穎達の《周易正義·大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。北宋八經巾箱版本は《周易》原文において《大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。宋代に印刷された唐代の李鼎祚の《周易集解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている、この爻の爻辭本義を解釈した時、虞翻の学說を主張していた。
宋代に印刷された當時の易学著作については、たとえば、朱震の《漢上易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。魏了翁の《周易要義·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
宋代に印刷された漢·唐の間の易学著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし”、“その尪にあらず。咎なし”、“その旁にあらず。咎なし”三つの版本が並存しているという現象を說明ことになる。宋代の易学者の著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし” をもって主張したものが、多かったのである。この現象は、程頤が解釈した易学思想と一致しているのであるから。宋代の易学研究が、程朱理学思想の影響を受ていることが分かる。
4、明代版本
明代版本の重要な特點は、“その彭にあらず。咎なし”の版本用字をもって、政府が指定した版本用字とすることである。明代に印刷された明代以前の易学著作のなかでは、たとえば、萬曆兩蘇經解本のなかの蘇軾《東坡易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字のは、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
明代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、正雅堂版本のなかの陳士元が作った《易象鉤解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。また、建陽坊版本のなかの胡広·陳順仁が作った《周易大全·大有卦九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
明代の易学著作者達の著作は、程頤の学說を主張したのであるから、この現象は、明代が程朱理学の思想をもって正式の指導思想とすることと、明らかに関係がある。
5、清代版本
清代版本、宋代から三つの版本用字が並存する伝統を繼承することになった。清代に印刷された清代以前の易学著作のなかでは、たとえば、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本は、雅雨堂版本として唐代の李鼎祚が作った《周易集解》がある。また、“その旁にあらず。咎なし”に作っている版本。阮元が校正された版本として魏晉時代の王弼《周易注》。“その彭にあらず。咎なし”に作っている版本は、爽堂版本として明代の來知德が作った《周易集注》、積德堂版本として宋代の程頤が作った《易伝》、武英殿聚珍版として宋代の楊萬里が作った《誠齋易伝》および通志堂版本として元代の吳澄が作った《易纂言》がある。
清代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、皇清經解版本として毛奇齡が作った《仲氏易·大有卦·九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。武英殿版本として李光地が作った《周易折中·大有卦·九四》爻の爻辭用字“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
清代の諸多版本の用字においては、“その彭にあらず。咎なし”版本用字に作っている。
6、民國版本
民國時期における、易学の研究は、以前のいかなる時代より、明らかに劣っている。社會、國家および政治の危機と混亂により、易学に対する深い研究は、外在の基礎がすでに失われていた。それで、この期間の各種版本印刷物について、その質量と數量は、取るに足りないものであった。しかし、清末民初の際に、易学者杭辛齋、尚秉和、沈廸民、李徵剛などは、漢代の象數易学研究方法へ引き返したので、“その尪にあらず。咎なし”の版本用字を主流として、虞翻の学說を指導とした特殊な現象を形成することになった。民國十六年に出版した曹元濟が作った《周易集解·大有卦·九四》は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている。民國二十五年に出版した清末孫星衍が作った《周易集解》、高亨が作った《周易古經今注》著作などは、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本用字を主張した。
7、日本版本
日本易学史は、中國古代易学史の一つの重要佐証として、注意すべき課題である。日本古代易学史上では、最も多い著作は、程朱易学に対する解說の本であろう。著名な易学者は、皆な程朱易学に解釈する。たとえば、淺見絅齋が作った《易学啟蒙考証》·《易經本義講義》、新井白蛾が作った《周易啟蒙考》·《周易本義考》、伊藤東涯が作った《周易伝義考異》、稻葉默齋が作った《周易本義講義》、片岡如圭が作った《易学啟蒙解》、林鵝峰が作った《周易程伝考》·《周易啟蒙私考》·《周易程說餘考》、真勢中洲が作った《易学啟蒙講義》、松井羅洲が作った《周易程伝備考》など。この現象は、中國易学史上では、明らかに多く見られたのである。
そして、日本古代易学史上では、“その彭にあらず。咎なし”を官方定本としたのである。
近代日本易学史上は、最も有名な《周易》版本は、後藤世鈞が點校した版本《周易正義》である。しかし、この版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。五聖閣版本の《周易正文》、天王寺屋市郎兵衛版本の《周易繹解》、長澤規矩也が校正した《和刻本經書集成》など版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
これから程朱理学の影響を受けた日本古代·近代易学では、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を採用していたことが分かる。ただ20世紀の初期になって、東京帝國大学の根本通明教授が、《周易講義》·《周易象義辯解》を書いた時に、異說を主張いた。彼は、《大有卦·九四》爻の爻辭用字は“その尪にあらず。咎なし”に作っている。虞翻の学說を主流として用いられた。根本氏の以後は、このような学說を持つ人は、尚だ發現しなかった。
いま、易学を研究する有名な学者、たとえば、私が尊敬する長澤規矩也、高田真治、鈴木由次郎、本田濟、中村璋八など先生達は、《大有卦·九四》を注解する時に、皆な“その彭にあらず。咎なし”作っていて、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を贊成していた。
——馬王堆帛書《周易》を中心にとして
一、はじめに
《周易·大有卦·九四》爻の爻辭について、古今易学史上では、定論がない問題である。しかも、版本学の角度から言えば、漢代から、この爻の爻辭用字については、三つの版本があって、當時、伝わっていた。どの版本の用字が、《周易》作者の本來の意味を表す原始的な版本かということは、本當に難しくて確認できない。この三の版本は、次の樣うな用字がある、1、漢代の虞翻を代表とする虞氏易学の版本、“その尪にあらず、咎なし”に作っている。2、魏晉時代の王弼を代表とする王氏易学の版本、“その旁にあらず、咎なし”に作っている。3、漢代の熹平石經を代表とする正統的な易学の版本、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。
二十世紀の七十年代初期になって、漢代の馬王堆帛書《周易》の出土に本なって、この爻の爻辭原始的な用字の判定と理解にとって、一つの參考すべき機會が與えられた、しかし、殘念なことに、漢代の馬王堆帛書《周易》は、一つの完全な版本ではなかった。通行本に比べて、間違った用字も至る所にある。たとえば、《師卦·上六》は、馬王堆帛書《周易》は、“大人君、命あり:國を啟き、家を承く、小人は、勿かれ”に作っている。ここの“勿”字の下、文字がはっきりしていない。しかし、ここの“大人君、命あり”というのは、通行本は、“大君、命あり”に作っている。しかも、“大君”という言葉は、《周易》と《尚書》など先秦時代の古籍において、常に使われたものである。ぃわゆる“大人君”というのは、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》のみに使われている、從って、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》においては、“人”字が誤って加えれたものであると分かる。“國を啟き、家を承く”というのは、通行本との“國を開き、家を承く”より、韻律と文勢が、はるかに劣っている。また、《漸卦·六四》の馬王堆帛書《周易》は、“鴻木に漸む、或いはその冠を直す。。咎なし”に作っている。通行本、“鴻木に漸む、或いはその桷を得す。咎”に作っている。二者を比較すれば、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》、“”字の一字が多い。その文字の意味は、今まで誰にも分からない。しかも、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》の“鴻木に漸む”の“木”の象は、後面の“或いはその冠を得す”の象とは、爻辭の象を取る方法は、一致しない、後面の“或いはその冠を得す”のなかには、“木”の象がない。しかし、通行本の“鴻木に漸む”の後面にある象は、“或いはその桷を得す”であり、“桷”のなかには、“木”の象があって、意味も明確になる。以上から、馬王堆帛書《周易》の版本は、一つの完全な版本ではない。
漢代馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》爻の爻辭は、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。これは以下のことを意味する、
1、“その尪にあらず、咎なし”と“その旁にあらず、咎なし”との兩種類の版本は、當時、すでに存在しなかったということである。この爻に対する歷代の論爭は、これによって解決されるはずである。なぜなら、現存する最も初期の出土史料が、秦·漢の易学の版本では、この字の用字は、“その彭にあらず”に作っているからである。“尪”と“旁” とは、“彭”の俗字として使われているはずである。
2、“その彭にあらず”と“その尪にあらず”と“その旁にあらず”との三種類の版本が、當時、存在した。ここの馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》における“その彭にあらず”というのは、ただ當時三つの版本が並存していたことを証明するのである。すなわち、馬王堆帛書《周易》を孤立的な根拠として、馬王堆帛書《周易·大有卦》の用字は、“その彭にあらず”の版本が、當時、実際に存在していたことを証明するのである。その意味は、この爻の由來の論爭は、すでに形成されていたことを意味する。それで、この爻の形成およぴ原始的な內容を研究することは、原始《周易》經典の成立史にとって、特に、《大有卦》原始卦義の解釈に対して、極めて重大な意義がある。
本論文は、以下の構成で研究を進されることにする、一、はじめに。二、《大有卦·九四》爻の諸說についての考察。三、《大有卦·九四》爻についての諸版本の考察。四、虞氏易学の“尪”字說についての考察。五、“尪”字の成立史研究。六、“尪”と“彭”の関係の考察。七、結び。
二、《大有卦·九四》爻の諸說についての考察
本節では、《大有卦·九四》爻にある多くの解釈を考察し、以後の考察のため、基礎的な見解を述べる。私の考察によると、古今の易学史のなかに、この問題に対する解釈には、以下の十種類がある。
1、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說。
それは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味をもって“その彭にあらず”に対する版本用字を解說するのである。たとえば、宋代の朱震《漢上易伝》は、
彭は、《子夏伝》は、“旁”に読作す。旁は、盛滿の貌なり。
とある。また、宋代の程頤《易伝》は、
彭は、盛多の貌なり。
とある。今人鄧球柏《帛書周易校釈》は、
彭は、盛大の貌なり。
とある。これらと同じものに、たとえば、宋代の楊萬里《誠齋易伝》は、“盛になるの至るなり”とある、元代の吳澄《易篡言》は、“声樂を作す盛のになるなり”とある。明代の來知德《周易集注》は、“言うこころは、声勢の盛になるなり”とあるなど、宋代より、“彭”字を“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味に解釈するのは、一つの主流であっり、その說の由來については、すなわち、程頤《易伝》が考証している。それは《詩經》における“彭彭”一詞の意味をもって《周易》における“彭”字の意味に解釈するのであった。その論証過程は、次の通りである。
彭は、盛多の貌なり。《詩·載驅》に云く:“汶水湯湯、行人彭彭”と、行人盛多の狀なり。《雅·大明》に云く:“駟騵彭彭”と、言うこころは、武王は、戎馬の盛になるなり。
とある。しかし、“彭彭”という言葉は、“彭”の意味ではない。たとえば、《詩經》においては、“桃の夭夭”の“夭夭”という言葉の意味が、“夭”字とは、意味がまったく違っているである。すなわち、古代漢語における重疊詞の意味というのは、單漢字の意味の單純な重複ではない。このことから、程頤《易伝》におけるこの字に対する解釈は、明らかに不十分である。以上の事が正しければ、この說の成立根拠は、すでになくなってしまったことになる。
2、“驕滿”說
この說の起源は、“その彭にあらず”の“彭”字を“亨”字に解読するのである。この說は、晉代の干寶が始めて作った。唐代の陸德明《經典釈文》は、
干は、“彭は、亨なり。驕滿の貌なり”と云う。
とある。この說の由來については、これまてのところに明らかでない。歷代、この說に贊成した者は、すくない。よって、“彭”字を“亨”字に解釈したうえで、さらに“驕滿の貌”に解釈したのは、根拠が不十分である。
3、“壯”字說
この說の起源は、魏晉時代の王肅が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
王肅は、“壯なり”と云う。
この說の由來については、これまてのところに不明である。歷代、この說に贊成した者は、すくない。この說については、成立した根拠が、不十分である。
4、“旁”字說
この說の起源は、孔子の学生として易学家卜子夏により、始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
《子夏》は、“旁”に作っている。
とある。唐代の史徵《周易口訣義》は、
彭は、旁なり。
とある。しかし、《周易卜子夏伝》は、中國古代社會のなかで、すでに失伝したが、この說を引用した者もすくないである。いまは、日本で出版されて、小林珠淵が校正された《周易卜子夏易伝》によって言えば、卜子夏は、“彭”字に基づいて言うと“旁”に解読したのである。《周易卜子夏伝》の時代と馬王堆帛書本《周易》の時代との時間距離は、わりと近寄っている。いま見ると、當時、伝えられた《周易》版本は、“匪其彭”版本を主としたため、“彭”字を解釈する時に、重大な間違いを犯したのである。
5、“三”字說
この說の起源は、魏晉時代の王弼が始めてとなえた。王弼《周易注》は、
旁は、三と謂うなり。
とある。王弼は、九四爻位の“その旁にあらず”を九四爻位のとなり(旁)の第三爻に理解した。唐代の孔穎達《周易正義》も九三は九四の旁にあると謂うとある。王弼は、字義の解釈を彼に棄てられた伝統的な象數学に遡った。ここには、彼のこの說と彼の“意を得、象を忘れる”の易学理論とは、明らかに矛盾している。しかも、この說の由來については、彼は、根拠をあげなかったから、この說を成立する基礎も無くなった。
6、“大”字說
この說の起源は、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。始めてとなえた者は、明代の陳士元であった。陳士元《易象鉤解》は、
彭は、大なり。大は、六五のある所があるなり。
とある。この說は、実は、取るに足らぬのである。“彭”を“大”に解釈するのは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。しかも、ぃわゆる“大は、六五のある所があるなり”というのは、すなわち、王弼の“旁は、三と謂うなり”を“旁は、五と謂うなり”に直した。四爻の下爻としての第三爻を四爻の上爻としての第五爻に直したものである。この說は、実に程頤說と王弼說を混同したものである。この說は、原始用字本義に対する研究の作用を無くすことなった。
7、“朋”字說
この說の起源は、日本の真勢中洲が始めてとなえた。森肋皓州《周易解詁》は、
真洲氏は、《周易釈故》の中で“彭”字を排し、“朋”字說を主張している。ここでは真勢氏の主張に從った。
とある。しかし、《周易坤卦》の中には、“朋”がある。それで、“彭”字を“朋”に釈するのは、古籍の根拠が足りたいのであるから、この說を成立させる時代的根拠も無くなった。
8、“尪”字說
この說の起源は、漢代の虞翻が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、
虞は、“尪”に作っている。
とある。また、唐代李鼎祚《周易集解》は、
虞翻曰く:匪は、非なり。その位は、尪なり。足は、尪す。体行、正しからざるなり。四は、位を失う。震は、足を折り、故に変して正を得、故に咎なし。
この說は、極めて特別な說である。“その尪にあらず”の版本が、ここから始まったのである。漢代の易学史上では、獨立獨步である。この說の由來については、私は、後文のなかで、詳細に考証を進める。
9、“音、義未詳”說
この說の起源は、極めて学術態度によって為された。宋代の朱熹が主張したのである。朱熹《周易本意》は、
“彭”字は、音、義、未詳なり。
とある。
10、“筐”字說
この說の起源は、日本の渉江羽化が考えたものである。渉江羽化《周易象義》は、
“匪”は、“筐”と同じ。離中虛、筐の象あり。
とある。しかし、この說の根拠が足りない。すなわち、“匪”字を“筐”字に解釈した古籍における証明が無い。
以上は、《大有卦·九四》爻に対する多くの解釈である。これは、以下の結論を証明することになった。つまり、この爻の論爭は、卜子夏の時代から、すでに形成されていたということが分かる。
三、《大有卦·九四》爻についての諸版本の考察
《大有卦·九四》爻にある多くの版本を考察するのは、十分に必要である。この研究は、この爻に対する版本用字の歴史を探求するためである。
1、帛書本
いま、保存されていて、最初の《周易》版本は、20世紀70年代の初期に出土した漢代の馬王堆帛書本《周易》である。この版本のに存在については、中國古代史料のなかに、まだ、記錄を見ない。この發見は、この版本が、漢代の初期以降、すでに失伝したということを物語っている。この版本の出現は、以下のことを意味する持つ。すなわち、中國古代の易学者達は、秦·漢易学の發展史に関する一連の重大な結論を書き直さなければならない。
私は、この論文の引論において言ったように、通行本に比べて、この版本の方が、間違った處もある。馬王堆帛書本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字ついては、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。このような版本の用字は、本論文の研究に、難しさを加えている。ここからいえば、この爻の用字およば本義の論爭が、漢代の初期以降、すてに形成されていたことが分かる。
2、石經本
いま、保存されている最も早い石經本《周易》は、漢代の熹平石經本《周易》である。漢代から、“儒術を獨り尊ぶ”という政策が行われたので、兩漢時代に、政府が主持された《周易》の用字をする校正ことが多い。たとえば、《漢書·宣帝紀錄第八》は、
三年春……諸儒に詔し、五經の異同を講ず。
とある。また、《後漢書·孝靈帝紀第八》は、
四年春……諸儒に詔し、五經文字を正す、石に刻し、太学の門の外に立つ。
とある。また、《後漢書·孝安帝紀第五》は、
四年……東觀に五經を校正す……脫誤を整齊す、これを正文字謂とう。
など。漢代の熹平石經本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。ここからいえば、この爻の爻辭用字については、漢代から、“その彭にあらず。咎なし”をもって、正式な版本としていたことが分かる。漢代の他の版本の用字について、當時、ぃわゆる印刷術というのは、尚だ、誕生していなかったので、後代の文獻記錄のなかに、まだ、漢代の易学者虞翻の“その尪にあらず。咎なし”という版本·漢代以前の易学者卜子夏の“その旁にあらず。咎なし”という版本が、存在しているはずである。或いは、將來、出土する史料が、これら兩種類の版本を提供するはずであると考えられる。
3、宋代版本
いま、見える最も早い、書として印刷された《周易》版本は、宋代の活字排印の方法印刷したものである。唐代の印刷物は、雕版の方法で橫長くのもののなかに、印刷したものである。ぃわゆる卷子本である。こんな印刷形式の《周易》版本は、いままで、まだ、見られない。
宋代に印刷された宋代以前の易学著作については、たとえば、北宋時代に印刷した魏晉時代の王弼の《周易注·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その旁にあらず。咎なし”に作っている。また、同時代に印刷された唐代の孔穎達の《周易正義·大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。北宋八經巾箱版本は《周易》原文において《大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。宋代に印刷された唐代の李鼎祚の《周易集解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている、この爻の爻辭本義を解釈した時、虞翻の学說を主張していた。
宋代に印刷された當時の易学著作については、たとえば、朱震の《漢上易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。魏了翁の《周易要義·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
宋代に印刷された漢·唐の間の易学著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし”、“その尪にあらず。咎なし”、“その旁にあらず。咎なし”三つの版本が並存しているという現象を說明ことになる。宋代の易学者の著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし” をもって主張したものが、多かったのである。この現象は、程頤が解釈した易学思想と一致しているのであるから。宋代の易学研究が、程朱理学思想の影響を受ていることが分かる。
4、明代版本
明代版本の重要な特點は、“その彭にあらず。咎なし”の版本用字をもって、政府が指定した版本用字とすることである。明代に印刷された明代以前の易学著作のなかでは、たとえば、萬曆兩蘇經解本のなかの蘇軾《東坡易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字のは、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
明代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、正雅堂版本のなかの陳士元が作った《易象鉤解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。また、建陽坊版本のなかの胡広·陳順仁が作った《周易大全·大有卦九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
明代の易学著作者達の著作は、程頤の学說を主張したのであるから、この現象は、明代が程朱理学の思想をもって正式の指導思想とすることと、明らかに関係がある。
5、清代版本
清代版本、宋代から三つの版本用字が並存する伝統を繼承することになった。清代に印刷された清代以前の易学著作のなかでは、たとえば、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本は、雅雨堂版本として唐代の李鼎祚が作った《周易集解》がある。また、“その旁にあらず。咎なし”に作っている版本。阮元が校正された版本として魏晉時代の王弼《周易注》。“その彭にあらず。咎なし”に作っている版本は、爽堂版本として明代の來知德が作った《周易集注》、積德堂版本として宋代の程頤が作った《易伝》、武英殿聚珍版として宋代の楊萬里が作った《誠齋易伝》および通志堂版本として元代の吳澄が作った《易纂言》がある。
清代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、皇清經解版本として毛奇齡が作った《仲氏易·大有卦·九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。武英殿版本として李光地が作った《周易折中·大有卦·九四》爻の爻辭用字“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
清代の諸多版本の用字においては、“その彭にあらず。咎なし”版本用字に作っている。
6、民國版本
民國時期における、易学の研究は、以前のいかなる時代より、明らかに劣っている。社會、國家および政治の危機と混亂により、易学に対する深い研究は、外在の基礎がすでに失われていた。それで、この期間の各種版本印刷物について、その質量と數量は、取るに足りないものであった。しかし、清末民初の際に、易学者杭辛齋、尚秉和、沈廸民、李徵剛などは、漢代の象數易学研究方法へ引き返したので、“その尪にあらず。咎なし”の版本用字を主流として、虞翻の学說を指導とした特殊な現象を形成することになった。民國十六年に出版した曹元濟が作った《周易集解·大有卦·九四》は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている。民國二十五年に出版した清末孫星衍が作った《周易集解》、高亨が作った《周易古經今注》著作などは、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本用字を主張した。
7、日本版本
日本易学史は、中國古代易学史の一つの重要佐証として、注意すべき課題である。日本古代易学史上では、最も多い著作は、程朱易学に対する解說の本であろう。著名な易学者は、皆な程朱易学に解釈する。たとえば、淺見絅齋が作った《易学啟蒙考証》·《易經本義講義》、新井白蛾が作った《周易啟蒙考》·《周易本義考》、伊藤東涯が作った《周易伝義考異》、稻葉默齋が作った《周易本義講義》、片岡如圭が作った《易学啟蒙解》、林鵝峰が作った《周易程伝考》·《周易啟蒙私考》·《周易程說餘考》、真勢中洲が作った《易学啟蒙講義》、松井羅洲が作った《周易程伝備考》など。この現象は、中國易学史上では、明らかに多く見られたのである。
そして、日本古代易学史上では、“その彭にあらず。咎なし”を官方定本としたのである。
近代日本易学史上は、最も有名な《周易》版本は、後藤世鈞が點校した版本《周易正義》である。しかし、この版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。五聖閣版本の《周易正文》、天王寺屋市郎兵衛版本の《周易繹解》、長澤規矩也が校正した《和刻本經書集成》など版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。
これから程朱理学の影響を受けた日本古代·近代易学では、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を採用していたことが分かる。ただ20世紀の初期になって、東京帝國大学の根本通明教授が、《周易講義》·《周易象義辯解》を書いた時に、異說を主張いた。彼は、《大有卦·九四》爻の爻辭用字は“その尪にあらず。咎なし”に作っている。虞翻の学說を主流として用いられた。根本氏の以後は、このような学說を持つ人は、尚だ發現しなかった。
いま、易学を研究する有名な学者、たとえば、私が尊敬する長澤規矩也、高田真治、鈴木由次郎、本田濟、中村璋八など先生達は、《大有卦·九四》を注解する時に、皆な“その彭にあらず。咎なし”作っていて、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を贊成していた。